破壊された古窯
瀬戸市近郊には古くから人間が住みつき、生活を営んできたことから、多数の遺跡が散在しています。
瀬戸市教育委員会が1997年にまとめた『瀬戸市内遺跡詳細分布調査報告書』によれば、その数は800を超えます。
時代は縄文、弥生時代から近世にまでわたりますが、古墳時代の墳墓と13世紀鎌倉時代の古窯が多いのが特徴です。
古窯はその密度から見ても地域の消費量をはるかに超える生産量を物語るもので、鎌倉時代にはすでに産地として名を成していたことが伺えます。
当時の窯は周辺の山林から薪炭を得ていましたが、一帯が禿山になると遠方から焚き木を集めることを諦め、別の場所に移転しました。それが古窯の数が多くなった一因です。
古窯には大量の陶片がありますが、もし完全な状態で出土すれば1千万円以上の値がつくという事情があり、それを求めて今日でも盗掘が絶えません。
盗掘されたものはインターネットで取引されているそうですが、文化財保護法違反で立件されたという事例はまったく聞かれません。法の思想がまだ十分に理解されない瀬戸市の特殊性が背景にあるようです。
さて、私はホフマンの森の鉱山開発予定地で2004年6月と2005年2月にそれぞれ未発見の古窯を確認しました。
それらはいずれも『瀬戸市内遺跡詳細分布調査報告書』に記載されていないことから、新発見と考えていましたが、前者は2003年11月に瀬戸市と事業者が先行して確認していていたようです。
後者は事業者と教育委員会の調査で漏れていたものですが、地元では数十年前から一部の人たちに知られていたようです。
これらはいずれも鎌倉時代のもので、現地には山茶碗、四耳壷、焼き台、窯の壁面などの破片が多数散乱しています。
上の写真は在りし日の紺屋田Aのあな窯です。
この古窯はすでに取り壊され、出土品が埋蔵文化財センターの貯蔵庫などに保管されていますが、
窯本体やそれが立地していた環境は書類の上で記録して保存されているに過ぎません。
ある専門家は「瀬戸市が古窯の保全に関してマスタープランを作成し、それに則って体系的な保存を図る必要があるが、現状では片っ端から潰している」と嘆いています。
ある陶芸家は「瀬戸市では小長曽の古窯が保全されているが、それはせとものの歴史の中でとくだん重要なものではない」としたうえで、「紺屋田Aの古窯は瀬戸が焼き物で他の産地に抜きん出た技術、
つまり意図的に釉薬をかける技法を確立した時代のものである。その意味で瀬戸市にとって出自というべき重要な窯である」と語っています。瀬戸市文化課の調査報告ページ
陶芸家の主張に力を持たせたのは凸帯紋のある陶片の出土でした。凸帯紋は四耳壷の肩の部分をぐるりととりまく輪のようなもので、
この様式は珍しく、これまではわずかに馬ヶ城の窯で出土しているに過ぎません。
これと同じものは京都の国立博物館に重要文化財として収蔵されていますが、紺屋田Aの窯はそれが焼かれた窯である可能性がありました。
瀬戸市でこのように古窯の価値を説き、その保全を訴える窯業関係者はまだ多くありません。
先出の調査報告書を見ても陣屋鉱山・印所鉱山には遺跡、古窯の記載はなく、地図が空白です。平成4年の調査開始時にはすでに滅失していたことが伺えます。
この間の事情について専門家は「瀬戸市で埋蔵文化財保護法の思想が浸透したのはこの20年ほどのことで、それまでは勝手に取り壊されるのが通例であった。
その転機となったものは菱野団地の造成である。これは県の事業であるからきちんと手続きを取り、調査記録を残したのが最初であった」と述べています。
そして下段の地図の空白部は「古窯が存在しなかったのではなく、明るみに出ないうちに取り壊されただけ。珪砂採掘地を団地に転用した五位塚にも数箇所の古窯があったはず」と述べています。
ちなみに下図の馬ケ城地区は『馬ケ城』の名のつく窯跡が19箇所、それ以外の名前のついた窯跡が19箇所、合計38もの古窯があります。しかもひとつの窯跡に平均2つの窯体が隣接し、
その数は80に及びます。
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